日系デベロッパーが虎視眈々 始まった!上海住宅市場“第3ラウンド”
冷え切ったはずの上海の住宅市場で日系デベロッパーが動き始めている。目指すは「第3ラウンド」。バブル期を経て正常化する住宅市場に“日系のノウハウ”をぶつける。不動産デベロッパーも、少子高齢化で縮小する日本市場から海外にヘッジせざるを得ない時代になった。
◆日系企業による中国住宅投資の「過去」、「現在」、「未来」
過去を振り返れば、日系企業による住宅投資も少なくない。しかし、「第3ラウンド」の投資はこれまでと意味合いが異なる。中国の住宅投資に出ざるを得ない背景、そして成熟に向かう中国の住宅市場が、今後も日系企業の進出を加速させる。
第3ラウンドが始まった
2002年から火がつき、バブル状態にまで燃え上がった上海の住宅市場だが、ついに05年3月にピークアウト、“第2ラウンド”(下記注釈参照)はジ・エンドを迎えた。その傾いた市場にポツポツと姿を見せる日本の不動産デベロッパーがある。
「え、今さら? もうブームが終わっているというのに」と思う向きもあるだろう。だが不動産デベロッパー各社は異口同音に「住宅市場はむしろこれからが本番だ!」と胸を張る。いずれも「正常化する市場」を期待して“第3ラウンド”に向けた投資を開始した。
背景には少子化
一方、日本の不動産業界には「将来、もっと多くの日本の不動産デベロッパーが中国へ進出して行くはず」との憶測がある。日本のマンション市場はここ数年活況で各社増収増益、東京では空室率も下がりほぼ満室稼動といわれているにもかかわらず、すでに彼らの目は中国に向けられる。背景にあるのが「日本の少子化問題」だ。
「成長が見込めない日本市場にとどまる限り、そのデベロッパーは負け組になる」(日本の大手不動産社員)。2010年以降、少子化顕在の時代に入ると予測されている日本では、不動産業界もまた市場の縮小に直面する運命にある。市場のパイが限定される数年後を待つまでもなく、日本の不動産業界でも勝ち負けが鮮明になろうとしているのだ。
ついに日本の不動産業界も、市場を求めて海外進出を目指す時代になった。が、そもそも不動産業界にとって海外進出は縁がない。製造業はその土地に安価な労働力があれば海を渡るが、不動産業は商売の地盤はあくまで日本国内、その事業の性格は極めてドメスティックなものだからだ。戦後、不動産業界が体験した海外進出があるとすれば、バブル期の海外投資がそれだろう。
過去にもある日系の住宅投資
80年代後半から90年代前半にかけてのバブル期は、ちょうど第1次(80年代後半)、第2次(90~95年)中国進出ブームとも重なり、北京では日系の住宅投資が相次いだ。88年竣工の「天壇公寓」は伊藤忠、89年2月の「長富宮」は日系企業40社によるコンソーシアム、また90年竣工の「東苑公寓」は丸紅と大和ハウスが、さらに95年竣工の「龍頭公寓」は北海ホールディングスの投資により開発されたものだった。
一方、上海の住宅市場で日系企業による投資の集中を見たのは90年代後半、日系企業の進出ブームを当て込んだものだ。第1、第2次の進出ブームから日本人駐在員用の賃貸住宅の需要が高まり、商機を見込んだ日系デベロッパーが開発に乗り出したといういきさつがある。97年12月には松下電工住宅の「東櫻花苑」、98年9月には大東建託の「上海ガーデンプラザ」、98年12月にはフジタの「虹橋公寓」が立て続けに竣工。ところが97年7月に発生したアジア経済危機の影響を受け、現地日系企業は事業を撤退・縮小。第2次進出ブームを目の当たりにし「商機がある」と踏んだ時期と、竣工時期に隔たりがあったため、これらプロジェクトも第3次進出ブーム(2000~05年)が到来するまで苦戦が続いた。
そして02年を過ぎると一転して上海経済は盛り上がりを見せる。02年前後には「世界の工場」といわれ、04年を過ぎると「世界の市場」といわれるようになった上海に、日系企業が大挙して進出した。そして再び日本人住宅が不足する事態に。既存の日系住宅は100%フル稼働に近い状態が続き、入居できない日本人世帯は外資系・中国系賃貸住宅に散って行った。だが、これだけの好況を前にしながらも、第3次進出ブーム期は日本人向け住宅は立ち上がらなかった。
03年、04年と確かに日本の不動産各社は上海市場の視察を繰り返していたが、狙っていたのは日本人向けではなく、ズバリ“中国人市場”だったのである。
これからは中国人向け物件開発
そして05年。「日本のデベロッパー上陸」の第3の波が来た。既存の顔ぶれとは異なる彼らは、満を持して新たなビジネスモデルを持ち込もうとしている。日本有数のデベロッパーとして長年の実績を持つ三井不動産、東京建物、三菱商事の3社が目指すものは「非日本人住宅」、これまでの中国ビジネスの定番を破り、中国人向け分譲住宅を開発しようというものだ。
これまで上海の中国人向け住宅市場において日系デベロッパーといえば、唯一「丸紅」しか存在しなかった。そこに新たに大手3社が加わる。彼らに共通するのは「中国は遅かれ早かれ、参入していくべき市場」という認識だ。不動産業界にとってもボーダレス化の波が押し寄せているのは疑いのないところ。その試金石となるのが、上海での住宅開発だ。
バブル期を経て正常化する住宅市場
ところが、上海市では成約価格の推移から見ても、かつての勢いがなくなった。購入者の姿も「モデルルームも見ず、場所、値段、広さで即決即断の投資家たち」から、「じっくり観察を重ねてから購入に踏み切るサラリーマン層」に取って代わった。販売開始とともに「即日完売!」はすっかり過去のものになってしまい、中には「販売開始」にすら踏み切れず、様子見に徹する売主も出てくるようになった。
振り返ってみれば、それは誰もが踊らされた不動産バブルだった。日本とは意味合いは異なるが、ここで泣きを見たのは「コロガシ専用物件」を購入してしまった善意の市民だ。「入居もほとんどない投資目的のマンションからは、管理費すら徴収できない。結果、管理会社が逃げ出す物件もある」という上海市の弁護士によるコメントは、その惨状を浮き彫りにしている。
中国のあるデベロッパー社員も激白する。
「利ざや稼ぎの転売目当ての物件は、そもそも住宅として作りこむ必要がなかった」
昨年までの住宅市場は玉石混交、文字通り、玉もあれば石もある状況だったというのだ。
使い勝手の悪い間取り、床板をめくればコンクリート、断熱材さえ入らない壁という上海のマンションは、確かに「理想の住まい」とは言いがたい。
上海の不動産開発に日本の資本が加わるということは、すなわちより一層の質の向上がもたらされることを意味する。これからは「付加価値」、そして「差別化」。日本が持つノウハウがこれからの上海の住宅市場を活性化させるといっても過言ではない。
この特集では日系デベロッパーとしてこの市場に道をつけた丸紅を筆頭に、地元不動産大手とともに物件の開発に乗り出した東京建物、これから本領を発揮しようとする三菱商事、三井不動産の4社を取り上げた。●
第3ラウンドとは
北京・上海を中心とする中国では不動産の山場が幾つかに分かれている。第1ラウンドは90年代前半で、華僑を含む外国人投資家が市場を牽引し、その後97年のアジア経済危機の発生とともに悪化、終了。第2ラウンドは不動産市場が盛り返しを見せる2002年以降からピークアウトする05年まで。そして「泡沫」の部分が拭い去られ、市場が正常化すると期待されているのが05年以降。「第3ラウンド」と解釈したのはこうした理由から。
◆中国人向け住宅開発の草分け的存在――丸紅
「上海の一般市民向け住宅市場が動き始めている」――。
そんな興味深い報告が丸紅上海支店から丸紅本社に舞い込む。人口13億人の巨大マーケット、その市民が住宅を買い求める時代が到来した。その動きを探りに上海へ。すべてはゼロから始まった。

丸紅海外開発建設部 徳永 貴司さん
上海好世の副総経理を務める徳永貴司さん。89年の入社以来、海外畑を歩む。東南アジア、中国で住宅、オフィス、工業団地の開発に携わる。中国駐在歴4年
1997年7月、丸紅海外開発建設部の徳永貴司さんは当時の上司であった高橋裕治さん(現・丸紅(上海)有限公司の社長)とともに虹橋空港に降り立った。ミッションは中国人向け住宅の市場調査だった。「上海では住宅が売れ始めているというが本当か、もしそうなら…」と半信半疑で市場調査に乗り出した。
当時、上海人の年収といえば1万5000元、月収にしても1500元に満たない低さだった。にもかかわらず、50万元の住宅が売れているという。日本では、購入可能な住宅価格は年収の5~6倍といわれるのが常識だが、50万元という住宅価格は年収の33倍にも相当する。だとしたら、上海市の統計に現れない現実がそこに隠されている可能性がある。この数字に隠れた部分をいかにして炙り出すか、それがこの調査の目的となった。
ひたすら歩いた3週間
3週間という期間限定での出張、2人は徹底的に市内を歩き回った。どこにどんなマンションがあり、どれだけ売れているのか、それらの状況をつぶさに調べ上げた。今でこそ中国情報は溢れるほどあるが、当時、中国といえばまだまだベールの奥の国、しかも不動産市場にかかわる情報など未知数そのものだった。
「北京路、南京路、淮海路などの目抜き通りはもとより、縦横に走る道という道の端から端までを全部歩きました。そこですべての分譲住宅の情報を拾い集めたのです」と、現・上海好世置業有限公司の副総経理である徳永さんは振り返る。このとき、すでに上海の市場では、一部のシンガポールや中国香港のデベロッパーが先行して分譲住宅を販売していた。
折りしも97年7月は、アジア経済危機が発生し中国経済も冷え込んだ時期だった。「人民元の切り下げリスクがあるかもしれない」との不安がよぎったものの、それでも案件を進める方針を下した。テレビ、洗濯機、エアコンの3種の神器は当たり前、「買いたいものといえば、あとはクルマかマイホーム」、そんな現実を目の当たりにし、「上海市民の生活レベルは想像以上」との手ごたえを得たからだ。加えて97年は住宅ローンのシステムが本格的に運用された年。この2つの要素が事業のリスク回避の重要なファクターとなった。さらに “運命のパートナー”との出会いから、翌98年7月に合弁会社「上海好世置業有限公司」の設立にこぎつけるのである。
ジャパンクオリティの傑作、「好世鹿鳴苑」
皮切りは99年に販売を開始した「好世桜園」。そして02年には「好世鳳凰城」、さらに05年には「好世麒麟園」と次々に物件を市場に送り込む。いずれも土地は閔行区で、月収1万元クラス(99年当時の「好世桜園」の訴求対象は月収6000元クラス)の所得者層をターゲットにした住宅だ。「好世桜園は上海人が慣れ親しんだ“里弄”をコンセプトに取り込れました。庭付きの戸建てとなると総額が膨らむのでタウンハウスに。マンション中心のマーケットに投入した結果、1期は『出せば売れる』という即日完売に近い状況でした。やはり割安感を伴いながらも戸建てに近い感覚で専用庭が持てるのがポイントだったと思います」と語る。
「好世鳳凰城」は不動産ブームの上り調子に乗り、各期ともほぼ即日完売。現在販売中の「好世麒麟園」の1期もすでに8割の売却を終えた。
現在動き出したのが「好世鹿鳴苑」。これには住友商事、みちのく銀行も出資する。大手商社同士の合弁は珍しく、また地方銀行が直接出資するという例は他にない。販売開始は06年秋を予定。今回は除ゥ庄というターミナルの駅前物件という絶好の立地だ。市況に翳りが見え始めた今、完売するかの疑問もあるが、「ジャパンクオリティを売りにした物件を供給したい」と徳永さん。上海の住宅市場を牽引するブランドの1つになった「好世」、すでに丸紅のプロジェクトはそんな地位に上り詰めている。●
◆在庫溢れる上海で、今なぜ住宅開発なのか――東京建物
2005年、上海の住宅市場がピークアウトした。同じ年、日中不動産デベロッパーのビッグ同士が手を組むという劇的な一歩が不動産史に刻まれた。作る側も住む側も「住宅とは何ぞや」がわかっていなかったのが第2ラウンド。次なる第3ラウンドでは彼らが新たなルールづくりを牽引する。

東京建物株式会社 住宅事業第2部 山本 英作さん
東京建物住宅事業部第2部でマネジャーとして中国事業を担当する山本英作さん。92年入社以来、住宅一筋。「売れない時代に売ってきた」という経験が高く評価されている。
中国最大の不動産会社である上海万科房地産集団有限公司(本社は深センの万科企業)と日本の大手不動産デベロッパーの東京建物、大手同士が手を結んだ初のケースが業界の耳目を集めている。上場企業でもある優良会社同士の円満結婚、“意中の人”を射止めた東京建物は今後の展開でも一歩抜きん出た存在になるだろう。土地の仕入れをはじめ、あらゆるプロセスで行政の許認可を必要とする中国での不動産業は、極めて優良なパートナーが求められるからだ。
そもそも万科との出合いは90年代の前半にさかのぼる。93年、万科の王石董事長が当時の東京建物の社長を表敬訪問したことがそのきっかけだった。が、そうとは知らない部下たちは独自に上海の事業計画を立ち上げようとしていた。パートナーは万科。05年、その事業計画を提案された社内は驚く。
「10数年前に訪日した王石董事長の会社ではないか。これは不思議な縁だ」――。
2社はその後急速に近づき、05年10月には、万科企業が75%、東京建物が19%、大成建設が6%を出資した合弁会社「上海万科藍喬置業有限公司」の調印式が執り行われた。
不動産業界も海外進出の時代に
不動産といえば地域密着型の産業。地場に張り付いて事業展開するドメスティックな性格のものだったが、昨今、その不動産業界までが海外に目を向けるようになった。その背景には日本国内の少子化がある。
「バブル崩壊から10数年。今でこそ、日本のマンション市場は活況。けれども、2010年以降人口は減少に転じます。人口構造の変化に備えて新たな市場を開拓することが重要だと考えています」と、東京建物住宅事業第2部の山本英作さんは話す。
「体力があるうちに海外拠点を築きたい」、「願わくは13億の市場で発展を維持したい」と思うのはもちろん同社だけに限らない。
しかし、上陸した上海の市況は05年6月を境にすでにアゲインストに転じている。そのような市場で果たして勝算はあるのだろうか。
「いえ、これから求められるのが日本のノウハウなんですよ」
「内装込み」がそのひとつだ。中国では「スケルトン渡し」が一般的で、内装込みマンションはまだまだマイナーだが、さまざまな理由で「内装込み」をよしとする上海市政府は、方向転換の指導を行っている。「この内装込み」こそ、日系デベロッパーの強みの発揮どころなのだ。
「その後のアフターサービスやクレームの対応など、さまざまなノウハウがなければ『内装込み』も進歩しません。中国の不動産業界が欲しているのは、私たち日系デベロッパーの約半世紀におよぶ住宅開発のノウハウの蓄積です」と山本さんは話す。日本企業の事業効率のよさについても垂涎の的だ。いかにムダを省き、会社組織をスリム化させ1人当たりの売上げを高めるか、第3ラウンドに入った上海不動産業界で求められているのは、まさにこれらの点にあるのだ。
スーパーハイエンドを狙う
閔行区七宝の「城市花園(1万5000戸)」を見てもわかるように、従来、万科が得意としたのは中間所得者層に向けた物件開発だった。1平米当たりの単価に換算すれば、1万元以下の住宅だ。だが、この第3ラウンドではハイエンド向けの商品にも重点を置くという。「短期的な投機熱が冷めた感はありますが、優良な商品に対する需要は堅調、特に資金的に余裕のある富裕層はその傾向が強いのでは」(山本さん)。
ハイエンドマンションといえば、東京建物が東京・港区で建てた「高輪ザ・レジデンス(03年10月販売開始、574戸)」が記憶に新しい。最高で290平米、約5億円する “億ション”、実は万科の上層部もこの物件を視察している。当然の結果だが「一目惚れ」。が、惚れたのは他ならない山本さんその人。なぜなら、この物件の土地仕入れから設計・企画に至るまで彼が担当したからだ。しかも、92年入社の山本さんには、バブル崩壊後のダウントレンドの中で売り続けた経験もある。
「出せば売れる時代」が終わったからこそ、差別化を求める。マンション冬の時代だからこそ、「日系の出番」なのだ。●
◆宝鋼グループとともに住宅市場に本格参入――三菱商事
三菱商事も動き始めた。まずは既存のデベロッパー「上海宝地置業有限公司」への出資で不動産事業をスタートした。20数年来の友好関係にある上海宝鋼グループの傘下企業との合弁は、宝鋼グループ全体との提携強化にも貢献。現在、販売中の「宝地・東花園」が中国デベロッパー事業への本格参入第1弾となる。
三菱商事が中国で分譲住宅を中心とした不動産開発事業に本格的に参入した。2005年1月、三菱商事は上海宝鋼グループ傘下の不動産開発会社「上海宝鋼地産有限公司(出資後に上海宝地置業有限公司に改名)」に資本参加を決定、同年4月に出資持分の15%に相当する22億円を出資した。
三菱商事機械事業部の片山賢太郎さんが「この会社を大きくしていくという意味では息の長いプロジェクトになる」と話すように、単に1つのプロジェクトへの出資にとどまらず、長期的な発展を目指す。例えば、不動産の証券化や、設備機器の拡販、顧客管理のデータベース化など、同社他部門を絡めたバリューチェーンの構築がそれだ。商社の機能を活かし、国内のみならず海外での不動産開発を積極化、「得意な海外」を攻める考えだ。その第一歩に選んだのが中国市場である。
そもそも今回の合弁事業は、宝鋼100%子会社の上海宝地置業有限公司(02年に設立)からの誘いがきっかけだった。が、歴史をひも解けば、三菱商事と宝鋼グループとはプラント輸出で20年来のつきあい。「宝鋼の子会社ならばつきあいも深く、信用もあった」(同)ことから、話はトントン拍子で進んだ。
一方、設立して4年のデベロッパーの上海宝地は、天山路で190戸、宝山区で1139戸の住宅開発実績を持ち、直近では楊浦区で1440戸の販売を行っている。市内数カ所に土地を保有していることからも、今後の開発にも弾みがつく。デベロッパーとしては後発だが、数度にわたり東京の住宅視察にミッションを送り込むなどの力の入れようで、すでに「宝鋼ブランド」を確立し、クオリティの高いマンションを市場に提供している。
本腰入れての参画は第2期から
目下、売り出し中の「宝地・東花園(楊浦区)」第1期は、上海市政府から「楊浦区模範建築現場」に指定され、また、緑占率50%以上を確保していることからいくつも「景観賞」を受賞している。その第2期の開発から不動産デベロッパーとして35年の経験を持つ三菱商事のノウハウが投入されて行く。市場は折からの逆風だが、勝算はある。
「市況は足踏み状態ですが、日本のバブルとは中身が違う。上海では需要すら一巡していないんですよ」(同)。今後は“第2ラウンド”のときのように、3割も価格が上昇することはないにしても、上海の住宅市場はまだまだ成長が見込める。市民1人当たりの居住面積を比較してみても、日本は平均約40平米であるのに対し、中国は平均約14平米。また上海には「年間20数万戸」と、東京のマーケットの約2倍に相当する需要がある。三菱商事は上海はもちろん、他都市でもホワイトカラーに向けた分譲住宅の開発に取り組む計画だ。
今後は「ブランド力」、「商品企画力」での差別化が命運を分ける時代、「居室の企画設計から、工事の管理方法、現場の整理整頓に至るまでのクオリティコントロールに、三菱商事のノウハウを反映していきたい」と片山さんは抱負を語る。
商社系デベロッパーならではの「情報ネットワークの充実」という強みで一頭地を抜き、宝鋼の開発力と日本のノウハウ注入による相乗効果で市場への浸透を図る。●
◆住宅、オフィス、複合開発に強み発揮――三井不動産
総合不動産として日本最大の企業グループである三井不動産がついに立ち上がった。今後、海外ポートフォリオの中に中国市場を組み込む。オフィスビル事業では付加価値の高い街づくりを目指した複合開発、また住宅では「内装込み」「管理サービスの充実」を前提とした事業展開で優れたノウハウを発揮して行く。
90年代半ばの乱開発、クラッシュした北京、上海の不動産市場を目の当たりにすれば、その後の投資も躊躇せざるを得ない。当時、日本人の目には極めて懐疑的に映った2大都市の不動産市場だったが、2000年代に入ると手堅い市場に変身、「無視できない市場」へと評価を変えた。ところが、05年6月を境に上海の不動産市場は再び翳りを見せ始める。起伏の激しい不安定な市場のようだが、三井不動産上海駐在員事務所所長の青木重人さんは前向きに捉える。
「『バブルで市場が崩れた』という評価ではなく、『住宅が年間20万戸も売れる市場』、『今後、成熟して行く市場』として解釈したい。上海はとてつもないマーケットですよ」
年間の販売戸数にしてせいぜい8万戸という東京と比べても、上海にはその倍の勢いがあるのだ。
不動産業界も海外ポートフォリオを組む時代に
一方、上海における市場の潜在性もさることながら、日本の不動産業界を取り巻く環境もまた変化。海外に市場を求めるよりも、日本国内で事業を興すのが常だった不動産業界に異変が起きているのだ。
「日本のマーケットすらインターナショナルになってきています。極めてドメスティックな事業の性格を持つ不動産業界も、海外ポートフォリオをどう組むかを求められる時代になりました」と青木さん。日本の不動産業界のリーディングカンパニーでもある三井不動産は、アジアではシンガポールで30年以上にわたり不動産開発を行ってきた。が、ついにその軸足を中国にも移すことを決断した。
三井不動産は昨年12月に上海事務所の開所式を行ったばかり。その上海事務所に所長として送り込まれたのは、9年間シンガポールに駐在していた青木さんご本人。アジアで住宅開発のノウハウを持つ逸材だ。現在はこの事務所を拠点に情報収集を行う段階だが、上海を知るほどに夢は大きく膨らむ。
「住宅もオフィスも両方手掛けたいですね。弊社の得意分野のひとつは複合開発ですから」(同)。複合開発とは「日本橋三井タワー(05年オープン)に代表されるような、職・住・遊が一体化した高度な街づくりのことだ。日本でも多数のニュータウン開発、市街地再開発の豊富な経験を持つ同社、そのノウハウを上海のみならず中国各都市で生かす考えだ。
一方、住宅市場へはどう出て行くのか。上海の住宅市場にはとてつもなく豪華な物件も散見するが、商品企画、レイアウト、クオリティの3拍子揃ったものは稀。そこにぶつけるのが“国際水準”の住宅だ。
住宅は内装込みで提供、またはハイエンドだけではなく、アッパー、ミドルのどの層にも対応できる幅広い商品企画でリスク分散させるという。もちろん、政府主導で導入が加速する環境重視型の住宅にも力を入れる。海外市場への展開にこれまで以上に本腰を入れた同社では、「単なる不動産投資」というビジネスモデルではなく、地元に根付くデベロッパーを目指す。そのために欠かせないパートナー、青木さんは目下その選定でも情報収集に奔走している。●
※内容は「SUPERCITY CHINA06.04月号」より一部抜粋して掲載しております。
◆日系企業による中国住宅投資の「過去」、「現在」、「未来」
過去を振り返れば、日系企業による住宅投資も少なくない。しかし、「第3ラウンド」の投資はこれまでと意味合いが異なる。中国の住宅投資に出ざるを得ない背景、そして成熟に向かう中国の住宅市場が、今後も日系企業の進出を加速させる。
第3ラウンドが始まった
2002年から火がつき、バブル状態にまで燃え上がった上海の住宅市場だが、ついに05年3月にピークアウト、“第2ラウンド”(下記注釈参照)はジ・エンドを迎えた。その傾いた市場にポツポツと姿を見せる日本の不動産デベロッパーがある。
「え、今さら? もうブームが終わっているというのに」と思う向きもあるだろう。だが不動産デベロッパー各社は異口同音に「住宅市場はむしろこれからが本番だ!」と胸を張る。いずれも「正常化する市場」を期待して“第3ラウンド”に向けた投資を開始した。
背景には少子化
一方、日本の不動産業界には「将来、もっと多くの日本の不動産デベロッパーが中国へ進出して行くはず」との憶測がある。日本のマンション市場はここ数年活況で各社増収増益、東京では空室率も下がりほぼ満室稼動といわれているにもかかわらず、すでに彼らの目は中国に向けられる。背景にあるのが「日本の少子化問題」だ。
「成長が見込めない日本市場にとどまる限り、そのデベロッパーは負け組になる」(日本の大手不動産社員)。2010年以降、少子化顕在の時代に入ると予測されている日本では、不動産業界もまた市場の縮小に直面する運命にある。市場のパイが限定される数年後を待つまでもなく、日本の不動産業界でも勝ち負けが鮮明になろうとしているのだ。
ついに日本の不動産業界も、市場を求めて海外進出を目指す時代になった。が、そもそも不動産業界にとって海外進出は縁がない。製造業はその土地に安価な労働力があれば海を渡るが、不動産業は商売の地盤はあくまで日本国内、その事業の性格は極めてドメスティックなものだからだ。戦後、不動産業界が体験した海外進出があるとすれば、バブル期の海外投資がそれだろう。
過去にもある日系の住宅投資
80年代後半から90年代前半にかけてのバブル期は、ちょうど第1次(80年代後半)、第2次(90~95年)中国進出ブームとも重なり、北京では日系の住宅投資が相次いだ。88年竣工の「天壇公寓」は伊藤忠、89年2月の「長富宮」は日系企業40社によるコンソーシアム、また90年竣工の「東苑公寓」は丸紅と大和ハウスが、さらに95年竣工の「龍頭公寓」は北海ホールディングスの投資により開発されたものだった。
一方、上海の住宅市場で日系企業による投資の集中を見たのは90年代後半、日系企業の進出ブームを当て込んだものだ。第1、第2次の進出ブームから日本人駐在員用の賃貸住宅の需要が高まり、商機を見込んだ日系デベロッパーが開発に乗り出したといういきさつがある。97年12月には松下電工住宅の「東櫻花苑」、98年9月には大東建託の「上海ガーデンプラザ」、98年12月にはフジタの「虹橋公寓」が立て続けに竣工。ところが97年7月に発生したアジア経済危機の影響を受け、現地日系企業は事業を撤退・縮小。第2次進出ブームを目の当たりにし「商機がある」と踏んだ時期と、竣工時期に隔たりがあったため、これらプロジェクトも第3次進出ブーム(2000~05年)が到来するまで苦戦が続いた。
そして02年を過ぎると一転して上海経済は盛り上がりを見せる。02年前後には「世界の工場」といわれ、04年を過ぎると「世界の市場」といわれるようになった上海に、日系企業が大挙して進出した。そして再び日本人住宅が不足する事態に。既存の日系住宅は100%フル稼働に近い状態が続き、入居できない日本人世帯は外資系・中国系賃貸住宅に散って行った。だが、これだけの好況を前にしながらも、第3次進出ブーム期は日本人向け住宅は立ち上がらなかった。
03年、04年と確かに日本の不動産各社は上海市場の視察を繰り返していたが、狙っていたのは日本人向けではなく、ズバリ“中国人市場”だったのである。
これからは中国人向け物件開発
そして05年。「日本のデベロッパー上陸」の第3の波が来た。既存の顔ぶれとは異なる彼らは、満を持して新たなビジネスモデルを持ち込もうとしている。日本有数のデベロッパーとして長年の実績を持つ三井不動産、東京建物、三菱商事の3社が目指すものは「非日本人住宅」、これまでの中国ビジネスの定番を破り、中国人向け分譲住宅を開発しようというものだ。
これまで上海の中国人向け住宅市場において日系デベロッパーといえば、唯一「丸紅」しか存在しなかった。そこに新たに大手3社が加わる。彼らに共通するのは「中国は遅かれ早かれ、参入していくべき市場」という認識だ。不動産業界にとってもボーダレス化の波が押し寄せているのは疑いのないところ。その試金石となるのが、上海での住宅開発だ。
バブル期を経て正常化する住宅市場
ところが、上海市では成約価格の推移から見ても、かつての勢いがなくなった。購入者の姿も「モデルルームも見ず、場所、値段、広さで即決即断の投資家たち」から、「じっくり観察を重ねてから購入に踏み切るサラリーマン層」に取って代わった。販売開始とともに「即日完売!」はすっかり過去のものになってしまい、中には「販売開始」にすら踏み切れず、様子見に徹する売主も出てくるようになった。
振り返ってみれば、それは誰もが踊らされた不動産バブルだった。日本とは意味合いは異なるが、ここで泣きを見たのは「コロガシ専用物件」を購入してしまった善意の市民だ。「入居もほとんどない投資目的のマンションからは、管理費すら徴収できない。結果、管理会社が逃げ出す物件もある」という上海市の弁護士によるコメントは、その惨状を浮き彫りにしている。
中国のあるデベロッパー社員も激白する。
「利ざや稼ぎの転売目当ての物件は、そもそも住宅として作りこむ必要がなかった」
昨年までの住宅市場は玉石混交、文字通り、玉もあれば石もある状況だったというのだ。
使い勝手の悪い間取り、床板をめくればコンクリート、断熱材さえ入らない壁という上海のマンションは、確かに「理想の住まい」とは言いがたい。
上海の不動産開発に日本の資本が加わるということは、すなわちより一層の質の向上がもたらされることを意味する。これからは「付加価値」、そして「差別化」。日本が持つノウハウがこれからの上海の住宅市場を活性化させるといっても過言ではない。
この特集では日系デベロッパーとしてこの市場に道をつけた丸紅を筆頭に、地元不動産大手とともに物件の開発に乗り出した東京建物、これから本領を発揮しようとする三菱商事、三井不動産の4社を取り上げた。●
第3ラウンドとは
北京・上海を中心とする中国では不動産の山場が幾つかに分かれている。第1ラウンドは90年代前半で、華僑を含む外国人投資家が市場を牽引し、その後97年のアジア経済危機の発生とともに悪化、終了。第2ラウンドは不動産市場が盛り返しを見せる2002年以降からピークアウトする05年まで。そして「泡沫」の部分が拭い去られ、市場が正常化すると期待されているのが05年以降。「第3ラウンド」と解釈したのはこうした理由から。
◆中国人向け住宅開発の草分け的存在――丸紅
「上海の一般市民向け住宅市場が動き始めている」――。
そんな興味深い報告が丸紅上海支店から丸紅本社に舞い込む。人口13億人の巨大マーケット、その市民が住宅を買い求める時代が到来した。その動きを探りに上海へ。すべてはゼロから始まった。

丸紅海外開発建設部 徳永 貴司さん
上海好世の副総経理を務める徳永貴司さん。89年の入社以来、海外畑を歩む。東南アジア、中国で住宅、オフィス、工業団地の開発に携わる。中国駐在歴4年
1997年7月、丸紅海外開発建設部の徳永貴司さんは当時の上司であった高橋裕治さん(現・丸紅(上海)有限公司の社長)とともに虹橋空港に降り立った。ミッションは中国人向け住宅の市場調査だった。「上海では住宅が売れ始めているというが本当か、もしそうなら…」と半信半疑で市場調査に乗り出した。
当時、上海人の年収といえば1万5000元、月収にしても1500元に満たない低さだった。にもかかわらず、50万元の住宅が売れているという。日本では、購入可能な住宅価格は年収の5~6倍といわれるのが常識だが、50万元という住宅価格は年収の33倍にも相当する。だとしたら、上海市の統計に現れない現実がそこに隠されている可能性がある。この数字に隠れた部分をいかにして炙り出すか、それがこの調査の目的となった。
ひたすら歩いた3週間
3週間という期間限定での出張、2人は徹底的に市内を歩き回った。どこにどんなマンションがあり、どれだけ売れているのか、それらの状況をつぶさに調べ上げた。今でこそ中国情報は溢れるほどあるが、当時、中国といえばまだまだベールの奥の国、しかも不動産市場にかかわる情報など未知数そのものだった。
「北京路、南京路、淮海路などの目抜き通りはもとより、縦横に走る道という道の端から端までを全部歩きました。そこですべての分譲住宅の情報を拾い集めたのです」と、現・上海好世置業有限公司の副総経理である徳永さんは振り返る。このとき、すでに上海の市場では、一部のシンガポールや中国香港のデベロッパーが先行して分譲住宅を販売していた。
折りしも97年7月は、アジア経済危機が発生し中国経済も冷え込んだ時期だった。「人民元の切り下げリスクがあるかもしれない」との不安がよぎったものの、それでも案件を進める方針を下した。テレビ、洗濯機、エアコンの3種の神器は当たり前、「買いたいものといえば、あとはクルマかマイホーム」、そんな現実を目の当たりにし、「上海市民の生活レベルは想像以上」との手ごたえを得たからだ。加えて97年は住宅ローンのシステムが本格的に運用された年。この2つの要素が事業のリスク回避の重要なファクターとなった。さらに “運命のパートナー”との出会いから、翌98年7月に合弁会社「上海好世置業有限公司」の設立にこぎつけるのである。
ジャパンクオリティの傑作、「好世鹿鳴苑」
皮切りは99年に販売を開始した「好世桜園」。そして02年には「好世鳳凰城」、さらに05年には「好世麒麟園」と次々に物件を市場に送り込む。いずれも土地は閔行区で、月収1万元クラス(99年当時の「好世桜園」の訴求対象は月収6000元クラス)の所得者層をターゲットにした住宅だ。「好世桜園は上海人が慣れ親しんだ“里弄”をコンセプトに取り込れました。庭付きの戸建てとなると総額が膨らむのでタウンハウスに。マンション中心のマーケットに投入した結果、1期は『出せば売れる』という即日完売に近い状況でした。やはり割安感を伴いながらも戸建てに近い感覚で専用庭が持てるのがポイントだったと思います」と語る。
「好世鳳凰城」は不動産ブームの上り調子に乗り、各期ともほぼ即日完売。現在販売中の「好世麒麟園」の1期もすでに8割の売却を終えた。
現在動き出したのが「好世鹿鳴苑」。これには住友商事、みちのく銀行も出資する。大手商社同士の合弁は珍しく、また地方銀行が直接出資するという例は他にない。販売開始は06年秋を予定。今回は除ゥ庄というターミナルの駅前物件という絶好の立地だ。市況に翳りが見え始めた今、完売するかの疑問もあるが、「ジャパンクオリティを売りにした物件を供給したい」と徳永さん。上海の住宅市場を牽引するブランドの1つになった「好世」、すでに丸紅のプロジェクトはそんな地位に上り詰めている。●
◆在庫溢れる上海で、今なぜ住宅開発なのか――東京建物
2005年、上海の住宅市場がピークアウトした。同じ年、日中不動産デベロッパーのビッグ同士が手を組むという劇的な一歩が不動産史に刻まれた。作る側も住む側も「住宅とは何ぞや」がわかっていなかったのが第2ラウンド。次なる第3ラウンドでは彼らが新たなルールづくりを牽引する。

東京建物株式会社 住宅事業第2部 山本 英作さん
東京建物住宅事業部第2部でマネジャーとして中国事業を担当する山本英作さん。92年入社以来、住宅一筋。「売れない時代に売ってきた」という経験が高く評価されている。
中国最大の不動産会社である上海万科房地産集団有限公司(本社は深センの万科企業)と日本の大手不動産デベロッパーの東京建物、大手同士が手を結んだ初のケースが業界の耳目を集めている。上場企業でもある優良会社同士の円満結婚、“意中の人”を射止めた東京建物は今後の展開でも一歩抜きん出た存在になるだろう。土地の仕入れをはじめ、あらゆるプロセスで行政の許認可を必要とする中国での不動産業は、極めて優良なパートナーが求められるからだ。
そもそも万科との出合いは90年代の前半にさかのぼる。93年、万科の王石董事長が当時の東京建物の社長を表敬訪問したことがそのきっかけだった。が、そうとは知らない部下たちは独自に上海の事業計画を立ち上げようとしていた。パートナーは万科。05年、その事業計画を提案された社内は驚く。
「10数年前に訪日した王石董事長の会社ではないか。これは不思議な縁だ」――。
2社はその後急速に近づき、05年10月には、万科企業が75%、東京建物が19%、大成建設が6%を出資した合弁会社「上海万科藍喬置業有限公司」の調印式が執り行われた。
不動産業界も海外進出の時代に
不動産といえば地域密着型の産業。地場に張り付いて事業展開するドメスティックな性格のものだったが、昨今、その不動産業界までが海外に目を向けるようになった。その背景には日本国内の少子化がある。
「バブル崩壊から10数年。今でこそ、日本のマンション市場は活況。けれども、2010年以降人口は減少に転じます。人口構造の変化に備えて新たな市場を開拓することが重要だと考えています」と、東京建物住宅事業第2部の山本英作さんは話す。
「体力があるうちに海外拠点を築きたい」、「願わくは13億の市場で発展を維持したい」と思うのはもちろん同社だけに限らない。
しかし、上陸した上海の市況は05年6月を境にすでにアゲインストに転じている。そのような市場で果たして勝算はあるのだろうか。
「いえ、これから求められるのが日本のノウハウなんですよ」
「内装込み」がそのひとつだ。中国では「スケルトン渡し」が一般的で、内装込みマンションはまだまだマイナーだが、さまざまな理由で「内装込み」をよしとする上海市政府は、方向転換の指導を行っている。「この内装込み」こそ、日系デベロッパーの強みの発揮どころなのだ。
「その後のアフターサービスやクレームの対応など、さまざまなノウハウがなければ『内装込み』も進歩しません。中国の不動産業界が欲しているのは、私たち日系デベロッパーの約半世紀におよぶ住宅開発のノウハウの蓄積です」と山本さんは話す。日本企業の事業効率のよさについても垂涎の的だ。いかにムダを省き、会社組織をスリム化させ1人当たりの売上げを高めるか、第3ラウンドに入った上海不動産業界で求められているのは、まさにこれらの点にあるのだ。
スーパーハイエンドを狙う
閔行区七宝の「城市花園(1万5000戸)」を見てもわかるように、従来、万科が得意としたのは中間所得者層に向けた物件開発だった。1平米当たりの単価に換算すれば、1万元以下の住宅だ。だが、この第3ラウンドではハイエンド向けの商品にも重点を置くという。「短期的な投機熱が冷めた感はありますが、優良な商品に対する需要は堅調、特に資金的に余裕のある富裕層はその傾向が強いのでは」(山本さん)。
ハイエンドマンションといえば、東京建物が東京・港区で建てた「高輪ザ・レジデンス(03年10月販売開始、574戸)」が記憶に新しい。最高で290平米、約5億円する “億ション”、実は万科の上層部もこの物件を視察している。当然の結果だが「一目惚れ」。が、惚れたのは他ならない山本さんその人。なぜなら、この物件の土地仕入れから設計・企画に至るまで彼が担当したからだ。しかも、92年入社の山本さんには、バブル崩壊後のダウントレンドの中で売り続けた経験もある。
「出せば売れる時代」が終わったからこそ、差別化を求める。マンション冬の時代だからこそ、「日系の出番」なのだ。●
◆宝鋼グループとともに住宅市場に本格参入――三菱商事
三菱商事も動き始めた。まずは既存のデベロッパー「上海宝地置業有限公司」への出資で不動産事業をスタートした。20数年来の友好関係にある上海宝鋼グループの傘下企業との合弁は、宝鋼グループ全体との提携強化にも貢献。現在、販売中の「宝地・東花園」が中国デベロッパー事業への本格参入第1弾となる。
三菱商事が中国で分譲住宅を中心とした不動産開発事業に本格的に参入した。2005年1月、三菱商事は上海宝鋼グループ傘下の不動産開発会社「上海宝鋼地産有限公司(出資後に上海宝地置業有限公司に改名)」に資本参加を決定、同年4月に出資持分の15%に相当する22億円を出資した。
三菱商事機械事業部の片山賢太郎さんが「この会社を大きくしていくという意味では息の長いプロジェクトになる」と話すように、単に1つのプロジェクトへの出資にとどまらず、長期的な発展を目指す。例えば、不動産の証券化や、設備機器の拡販、顧客管理のデータベース化など、同社他部門を絡めたバリューチェーンの構築がそれだ。商社の機能を活かし、国内のみならず海外での不動産開発を積極化、「得意な海外」を攻める考えだ。その第一歩に選んだのが中国市場である。
そもそも今回の合弁事業は、宝鋼100%子会社の上海宝地置業有限公司(02年に設立)からの誘いがきっかけだった。が、歴史をひも解けば、三菱商事と宝鋼グループとはプラント輸出で20年来のつきあい。「宝鋼の子会社ならばつきあいも深く、信用もあった」(同)ことから、話はトントン拍子で進んだ。
一方、設立して4年のデベロッパーの上海宝地は、天山路で190戸、宝山区で1139戸の住宅開発実績を持ち、直近では楊浦区で1440戸の販売を行っている。市内数カ所に土地を保有していることからも、今後の開発にも弾みがつく。デベロッパーとしては後発だが、数度にわたり東京の住宅視察にミッションを送り込むなどの力の入れようで、すでに「宝鋼ブランド」を確立し、クオリティの高いマンションを市場に提供している。
本腰入れての参画は第2期から
目下、売り出し中の「宝地・東花園(楊浦区)」第1期は、上海市政府から「楊浦区模範建築現場」に指定され、また、緑占率50%以上を確保していることからいくつも「景観賞」を受賞している。その第2期の開発から不動産デベロッパーとして35年の経験を持つ三菱商事のノウハウが投入されて行く。市場は折からの逆風だが、勝算はある。
「市況は足踏み状態ですが、日本のバブルとは中身が違う。上海では需要すら一巡していないんですよ」(同)。今後は“第2ラウンド”のときのように、3割も価格が上昇することはないにしても、上海の住宅市場はまだまだ成長が見込める。市民1人当たりの居住面積を比較してみても、日本は平均約40平米であるのに対し、中国は平均約14平米。また上海には「年間20数万戸」と、東京のマーケットの約2倍に相当する需要がある。三菱商事は上海はもちろん、他都市でもホワイトカラーに向けた分譲住宅の開発に取り組む計画だ。
今後は「ブランド力」、「商品企画力」での差別化が命運を分ける時代、「居室の企画設計から、工事の管理方法、現場の整理整頓に至るまでのクオリティコントロールに、三菱商事のノウハウを反映していきたい」と片山さんは抱負を語る。
商社系デベロッパーならではの「情報ネットワークの充実」という強みで一頭地を抜き、宝鋼の開発力と日本のノウハウ注入による相乗効果で市場への浸透を図る。●
◆住宅、オフィス、複合開発に強み発揮――三井不動産
総合不動産として日本最大の企業グループである三井不動産がついに立ち上がった。今後、海外ポートフォリオの中に中国市場を組み込む。オフィスビル事業では付加価値の高い街づくりを目指した複合開発、また住宅では「内装込み」「管理サービスの充実」を前提とした事業展開で優れたノウハウを発揮して行く。
90年代半ばの乱開発、クラッシュした北京、上海の不動産市場を目の当たりにすれば、その後の投資も躊躇せざるを得ない。当時、日本人の目には極めて懐疑的に映った2大都市の不動産市場だったが、2000年代に入ると手堅い市場に変身、「無視できない市場」へと評価を変えた。ところが、05年6月を境に上海の不動産市場は再び翳りを見せ始める。起伏の激しい不安定な市場のようだが、三井不動産上海駐在員事務所所長の青木重人さんは前向きに捉える。
「『バブルで市場が崩れた』という評価ではなく、『住宅が年間20万戸も売れる市場』、『今後、成熟して行く市場』として解釈したい。上海はとてつもないマーケットですよ」
年間の販売戸数にしてせいぜい8万戸という東京と比べても、上海にはその倍の勢いがあるのだ。
不動産業界も海外ポートフォリオを組む時代に
一方、上海における市場の潜在性もさることながら、日本の不動産業界を取り巻く環境もまた変化。海外に市場を求めるよりも、日本国内で事業を興すのが常だった不動産業界に異変が起きているのだ。
「日本のマーケットすらインターナショナルになってきています。極めてドメスティックな事業の性格を持つ不動産業界も、海外ポートフォリオをどう組むかを求められる時代になりました」と青木さん。日本の不動産業界のリーディングカンパニーでもある三井不動産は、アジアではシンガポールで30年以上にわたり不動産開発を行ってきた。が、ついにその軸足を中国にも移すことを決断した。
三井不動産は昨年12月に上海事務所の開所式を行ったばかり。その上海事務所に所長として送り込まれたのは、9年間シンガポールに駐在していた青木さんご本人。アジアで住宅開発のノウハウを持つ逸材だ。現在はこの事務所を拠点に情報収集を行う段階だが、上海を知るほどに夢は大きく膨らむ。
「住宅もオフィスも両方手掛けたいですね。弊社の得意分野のひとつは複合開発ですから」(同)。複合開発とは「日本橋三井タワー(05年オープン)に代表されるような、職・住・遊が一体化した高度な街づくりのことだ。日本でも多数のニュータウン開発、市街地再開発の豊富な経験を持つ同社、そのノウハウを上海のみならず中国各都市で生かす考えだ。
一方、住宅市場へはどう出て行くのか。上海の住宅市場にはとてつもなく豪華な物件も散見するが、商品企画、レイアウト、クオリティの3拍子揃ったものは稀。そこにぶつけるのが“国際水準”の住宅だ。
住宅は内装込みで提供、またはハイエンドだけではなく、アッパー、ミドルのどの層にも対応できる幅広い商品企画でリスク分散させるという。もちろん、政府主導で導入が加速する環境重視型の住宅にも力を入れる。海外市場への展開にこれまで以上に本腰を入れた同社では、「単なる不動産投資」というビジネスモデルではなく、地元に根付くデベロッパーを目指す。そのために欠かせないパートナー、青木さんは目下その選定でも情報収集に奔走している。●
※内容は「SUPERCITY CHINA06.04月号」より一部抜粋して掲載しております。


